映画『哭声/コクソン』の感想|信じた相手が悪魔だったら、あなたは見抜けるだろうか?
一度観ただけでは分からない。でも、頭から離れない映画
韓国映画『哭声/コクソン』を観て、まず思うこと。
「結局、何だったんだ?」
いや、本当にそうなのだ(笑)。
事件は起きる。人は死ぬ。怪しい人物はいるし、説明のつかない出来事も次々に起きる。それなのに、観終わったあと、すべてがきれいにつながった気がしない。
むしろ、考えれば考えるほど分からなくなる。
普通のミステリーなら、最後に犯人や真相が明らかになって、「ああ、そういうことだったのか」と納得できることが多い。でも、この映画はそう簡単にはいかない。
韓国の田舎町、コクソンで起きる不可解な事件。警察官のジョングは捜査を進めるうちに、村にやって来た謎の日本人の男と事件の関係を疑い始める。やがて、彼自身の娘まで恐ろしい事態に巻き込まれていく。
ここまではホラー映画として理解できる。
ところが、話が進むにつれて、何が本当なのか分からなくなってくる。
日本人の男が怪しい。いや、別の人物の言葉にも引っかかる。さっきまで信じていたことが、次の場面では疑わしく見えてしまう。
この映画の厄介なところは、観客まで登場人物と一緒に迷子にさせられることだ。
僕は映画を観るとき、多少分からないところがあっても、最後に何となく納得できればいいと思っている。でも『哭声/コクソン』は、そういう甘い考えを許してくれない。
それでも、なぜか頭から離れない。
怖いのに、もう一度考えたくなる。答えが分からないから、誰かの考察を読みたくなる。そして考察を読んだら読んだで、「いや、別の解釈もできるんじゃないか?」と思ってしまう。
この、すっきりしないのに引き込まれる感覚が、たまらない。
謎の日本人は悪魔なのか?よそ者を疑う人間の心理
この映画で、まず気になるのが、村にやって来た謎の日本人の男だ。
彼は何者なのか。なぜ彼の周囲で不可解な事件が起きるのか。本当に事件に関わっているのか。
観ている側は、自然と彼を疑い始める。
見慣れないよそ者が現れ、その周囲で不気味な出来事が起きる。しかも、本人の行動もどこか理解しにくい。疑うなというほうが無理だろう。
ただ、ここで少し立ち止まって考えたい。
人間は、理解できないものに出会うと、自分が納得できる説明を探そうとする。見慣れない人物がいれば警戒するし、原因不明の事件が続けば、誰かを犯人にしたくなる。
そして、一度「あいつが怪しい」と思い始めると、その人の行動が何もかも怪しく見えてくる。
これは映画の中だけの話ではない。
現実社会でも、事件が起きると、事実が十分に分からない段階で特定の人物や集団が疑われることがある。SNSでは断片的な情報や憶測が広がり、いつの間にか、疑いが確定した事実のように扱われてしまうこともある。
もちろん、危険を感じたときに警戒することは必要だ。何でも信じればいいという話ではない。
ただ、疑うことと、証拠もなく決めつけることは違う。
『哭声/コクソン』は、観客にもその危うさを体験させる。男の行動を見て疑い、別の人物の言葉を聞いて迷い、いつの間にか自分の中で犯人像を作り上げてしまう。
しかも、韓国の田舎町に日本人のよそ者がいるという設定が、物語に独特の緊張感を与えている。
文化や言葉の違い、外から来た人間への警戒心。そうしたものが重なって、男の正体をますます分かりにくくしている。
本当に怖いのは、正体不明の男なのか。それとも、分からないものを何とか理解しようとして、疑いを膨らませていく人間の心理なのか。
