映画『七年の夜』の感想|親の罪は、子供まで背負わなければならないのか?
1. たった一度の過ちが、七年間の地獄を生み出す
韓国映画『七年の夜』は、観ていて気持ちのいい作品ではない。
むしろ、ずっと重苦しい。救いが見えそうで見えないし、登場人物の誰かに素直に感情移入しようとしても、どこかで引っかかる。
でも、こういう映画は嫌いじゃない。人間の嫌な部分を隠さずに見せてくる作品には、観終わったあとも考えさせられるものがある。
物語の発端は、チェ・ヒョンスが濃霧の中で少女セリョンを車ではねてしまうことだ。
事故そのものも悲劇だが、問題はそのあとだった。ヒョンスは冷静に警察へ通報するのではなく、恐怖と動揺から遺体を湖に捨て、事故を隠そうとする。
ここで、彼は取り返しのつかない一線を越えてしまう。
人間は追い詰められると、普段なら考えられないような判断をすることがある。もちろん、だからといって何をしても許されるわけではない。
ただ、僕が怖いと思ったのは、ヒョンスが最初からすべてを計画した冷酷な殺人鬼というわけではないことだ。
自分の人生が壊れるのが怖い。家族を失いたくない。自分が犯したことを認めたくない。
そんな身勝手な感情が重なり、結果的に被害をさらに大きくしてしまう。
誰だって、人生で一度くらいは失敗する。問題は失敗したことそのものより、そのあとに何を選ぶかだ。
自分を守るために嘘をつく。嘘を隠すために、さらに嘘を重ねる。
最初は小さな逃げ道だったはずなのに、気づけば自分も周りの人間も抜け出せない場所に追い込んでしまう。
この映画の恐ろしさは、そんな人間の弱さが、ひとりの少女の命を奪った事件から七年間も続く悲劇へと広がっていくところにある。
2. チャン・ドンゴン演じるヨンジェが怖いのは、娘を愛しているからなのか
少女セリョンの父親、オ・ヨンジェを演じるのはチャン・ドンゴン。
ヨンジェは娘を失い、犯人への復讐に取りつかれていく男だ。
ただ、この人物を単純に「娘を殺されたかわいそうな父親」と見ることはできない。
彼は娘が生きていた頃から、暴力によって家族を支配していた。娘を大切に思っているように見えても、その愛情は相手をひとりの人間として尊重するものではない。
自分の思いどおりにさせたい。自分の支配から逃がしたくない。言うことを聞かせたい。
それは愛情というより、所有欲に近いものではないだろうか。
そして娘が死んだあと、ヨンジェは犯人への復讐を始める。
もちろん、大切な家族を突然失った悲しみは、簡単に理解できるものではない。犯人を許せない気持ちも、決して不思議ではない。
でも、復讐によって誰かを苦しめれば、失った娘が戻ってくるのだろうか。
そんなことはない。
それでもヨンジェは止まれない。娘を失った悲しみが、いつの間にか相手を苦しめることそのものへと変わっていく。
僕がこの人物を見ていて怖かったのは、本人の中では、それが正義や愛情の延長線上にあるのかもしれないということだ。
人間は、自分のしていることを悪だと認めるのが難しい。
「相手が先に悪いことをした」「自分には復讐する権利がある」「これくらい当然だ」
そんな理屈を積み重ねていけば、どれだけ残酷なことでも、自分の中で正当化できてしまう。
ヨンジェは、娘を失った被害者であると同時に、別の人間を傷つける加害者でもある。
この二つは、同時に成立するのだ。
3. 復讐のために、なぜ罪のない子供まで巻き込むのか
この映画で特につらいのは、大人たちの選択によって、子供たちまで苦しめられていくことだ。
ヒョンスには息子のソウォンがいる。
父親が犯した罪は、ソウォン自身が選んだものではない。それなのに、父親の過去によって、彼の人生まで大きく変えられてしまう。
ここで考えてしまうのが、親の罪と子供の責任の問題だ。
親が犯罪を犯したら、子供まで責められて当然なのだろうか。
現実の社会でも、事件が起きると、加害者本人だけでなく家族にまで批判の目が向けられることがある。家族の名前や過去を探り、本人とは関係のない人間まで追い詰めてしまう。
もちろん、被害者や遺族の怒りを軽く扱うことはできない。事件によって人生を壊された人が、納得できない思いを抱えるのも当然だと思う。
しかし、怒りの向け先を間違えれば、別の罪のない人間が被害者になる。
それでは、被害が次の被害を生むだけではないか。
現代では、SNSによって情報が瞬く間に広がる。事件の詳細が明らかになる前から犯人を決めつけたり、関係者の個人情報を探し出したり、家族にまで攻撃が及んだりすることもある。
正義のために声を上げているつもりでも、その行動が誰かの人生を壊している可能性はないだろうか。
もちろん、映画の復讐とネット上の批判を同じものとして扱うことはできない。だが、「悪い人間の関係者なら、何をされても仕方がない」という考え方には、共通する危うさがある。
罪を犯した人間には、責任を取らせなければならない。
しかし、その責任を家族や子供にまで負わせていいわけではない。
ソウォンの姿を見ていると、子供は親を選べないという、ごく当たり前の事実が胸に刺さる。
大人が自分の感情を制御できなかった結果を、なぜ子供が背負わなければならないのか。
この映画は、その理不尽さを容赦なく突きつけてくる。
4. 二人の父親に共通する、歪んだ愛情と暴力の連鎖
『七年の夜』を観ていると、ヒョンスとヨンジェは正反対の人間に見えながら、実は似た部分を持っていることに気づく。
ヒョンスは自分の過ちから逃げようとする。
ヨンジェは自分の悲しみを理由に、相手を追い詰めようとする。
やっていることは違う。しかし、どちらも自分の感情を優先し、その結果として子供たちを苦しめている。
父親だからといって、必ずしも立派な人間とは限らない。
子供を愛していると言いながら、自分の都合を押しつける親もいる。家族のためだと言いながら、本当は自分自身を守りたいだけのこともある。
僕自身、家族を大切にすることと、家族を自分の思いどおりにすることは、まったく違うと思っている。
本当に相手を大切に思うなら、自分の感情をぶつける前に、相手がどう感じるのかを考えなければいけない。
ましてや、暴力で支配することは愛情とは呼べない。
ところで、この映画の原作は、チョン・ユジョンの同名小説だ。映画版では、複雑な人間関係や過去の出来事が断片的に描かれ、少しずつ全体像が見えてくる。
この構成も、物語の重苦しさにつながっていると思う。
最初からすべてがわかっていれば、観客は誰が悪いのかを簡単に決められるかもしれない。
しかし、事情を知るにつれて、登場人物の行動の背景が見えてくる一方、だからといって許せるわけでもないという矛盾にぶつかる。
人間は、背景を知れば理解できる部分もある。
だが、理解することと、許すことは別だ。
つらい過去があったからといって、誰かを傷つけていい理由にはならない。愛情があったからといって、暴力が帳消しになるわけでもない。
この映画は、そんな当たり前のことを、簡単には割り切れない物語として見せてくる。
5. 『七年の夜』の結末を考える|罪は消えなくても、連鎖を止めることはできるのか
※ここからは結末に触れています。
七年という時間が過ぎても、登場人物たちが背負ったものは簡単には消えない。
人を傷つけた事実も、失われた命も、過去に戻ってやり直すことはできない。
だからこそ、この映画の結末を単純な勧善懲悪として受け取ることはできなかった。
悪い人間が罰を受ければ、それで一件落着という話ではないからだ。
たとえ犯した罪に対する決着がついたとしても、残された人間の人生には、その後も長い時間が続いていく。
亡くなった少女は帰ってこない。父親の罪を背負わされた息子も、失った時間を取り戻せない。
復讐によって相手を苦しめても、自分の悲しみがなくなるわけではない。
それどころか、憎しみを次の世代にまで引き継いでしまえば、悲劇は終わらない。
僕は、この映画が描いているのは、単なる復讐劇ではなく、親から子へと受け継がれてしまう暴力や憎しみなのだと思う。
人は、自分が受けた仕打ちを、知らず知らずのうちに別の誰かへ返してしまうことがある。
自分も苦しんだのだから、相手も苦しむべきだ。
自分が傷つけられたのだから、傷つけ返してもいい。
そうやって考え始めたら、いつまでたっても終わりは来ない。
では、どうすればいいのか。
簡単な答えはない。許せない相手を無理に許す必要もないし、被害者に我慢を求めるのも違う。
ただ、自分が受けた苦しみを、関係のない人間に渡さないこと。自分の怒りを正義だと思い込み、別の誰かを犠牲にしないこと。
そこからしか、連鎖を止める道は始まらないのではないだろうか。
『七年の夜』は、観終わったあとに爽快感が残る映画ではない。むしろ、胸の奥に嫌なものが残る。
でも、その嫌な感覚こそ、この作品が問いかけていることなのかもしれない。
人は、どこまで自分の罪に向き合えるのか。
愛情は、いつ暴力に変わってしまうのか。
そして、親が犯した罪を、子供まで背負わなければならないのか。
重い。とにかく重い。
それでも、人間の弱さや身勝手さから目をそらさずに観たい人には、考える材料の多い作品だと思う。
ただし、気軽に楽しめるサスペンスを期待している人には、かなりしんどい映画かもしれない。
僕はこの作品を観て、悪いことをした人間を罰するだけでは、すべてが解決するわけではないと改めて感じた。
本当に怖いのは、ひとつの罪そのものだけではない。
その罪をきっかけに、憎しみが別の人間へ、さらに次の世代へと広がっていくことなのだ。
